まことに勝手ながら7月2日の営業は
午後3時までとさせていただきます。
ご迷惑をおかけしますが何卒宜しくお願い致します。
knulpAA
2011年6月30日木曜日
2011年6月21日火曜日
貴島雄太朗 ガラス展
練馬区大泉在住のガラス作家 貴島雄太朗さんのガラス展を開催させていただきます。
見る角度によって光の表情が豊かに変わる、貴島さんらしいすっきりとしたフォルムの作品に加え、夏に涼しげなほんのりと色をつけたシリーズも登場します。
「今年はいつにも増して目に涼しさを求める夏になりました。私なりにイメージした涼感をどうぞご高覧くださいませ」貴島雄太朗
貴島雄太朗 ガラス展
2011.7.7(thu)-7.18(mon)
会期中無休
作家在廊日は後日掲載させていだきます。
2011年6月17日金曜日
ほうき
自然環境と切磋琢磨する厳しい必要性が、長い歳月の間に一貫した形を作り上げ、その磨き抜かれた合理性がいつしか美しい風情を醸し出す姿となる。
人間が他の動物と一番異なることは、環境に揉まれれば揉まれるほど、暮らしに磨きをかけていくことだ。
外部環境の脅威と対峙していた時、人間はその住処を、野生動物の体のように聡く適応力あるものにしようと努めた。しかし、いつしか人間がその環境のなかで安住できるようになって以来、人間の脳機能は、働く事自体を自己目的化し、際限なく巨大化し、大きな負荷になって人間を苦しめるようになった。
身体や住処は単なる物体ではなく、役割をもち、役割を果たすように機能し続けるものであることが基本だ。
生命活動の場合、環境のなかで最適を目指し続けようとする働きを引きついでいくと言い換えてもよい。形は、物そのものとして存在価値があるのではなく、その内部に秘められた掛け替えのない力を思いやるものなのだ。
『風の旅人#2』還るところ 佐伯剛 より
2011年6月12日日曜日
気宇
photo taken by studio cub
何はともあれ第一回目の井のいちが無事終了しました。
何かを書かなくてはと思いつつ、あっという間に日が経ってしまいました。
例年より早い梅雨入り、台風という生憎の天気に見舞われた井のいちでしたが、想像していた以上に多くのご来場者にお越し頂きほっとしています。
まずは、出展者の方々、来場者の方々に深くお礼を申し上げます。
この計画を立案したのは約8ヶ月前です。
その間に起こった東日本大震災。その前後では少し井のいちに対する考え方が変わったかもしれません。
自分は結局の所重要なのは人の主観的な人生の質のだと思います。
モノを作ったり売ったりすること美しさなどは最終的には人が人として生きる尊厳や主観的な人生の質に関わる重要な仕事だと思います。<中略>
自分が思ったのは、そういったときにその事実をどれだけ深く自分の問題として考え、自分たちにそれが起こったときにも心が折れないように生きられるよう自分の心棒(ママ)を強靱にしていくことが大切に思えました。
震災直後に知り合いの作家がくれたメールの一部です。
コミュニティー再生などとはよく聞く言葉ですが、おそらく昔のままの「場所」を基軸にしたコミュニティーを再生しようとしても無理があるような気がします。
しばらく前に読んだ養老孟司さんのコラムに書いていたような気がするのですが、
元々日本人がもっていた「諸行無常」という感覚とは異なる西洋的な(いわゆる「変わらない」)「個人」主義の観念をそのまま導入して「個性」などを育もうとしても上手くいくはずがない。家族や組織というものが崩れて、「個人」が社会と直接に関わりを持たなくてはいけなくなった時、「公」としての個人というものは本来国家によって守られなくてはいけないのにそうなっていない。
そして、まさしく現状ではその守られていない「個人」が最小単位の社会になりつつあります。
未曾有の自然災害とは別に、人災によって今まさに起こっているもうひとつの問題。
このような不安な時代では、否が応でもあらゆる出来事に対応できる心構がますます必要になってくるでしょう。
そして今までの「場所」を基軸にしたコミュニティーが完全に解体され、感性や思考によって自然派生的に集まった新しい「個人」によって今までとは異なる形のコミュニティーなりがその場所の一角、もしくは場所を超えて再構築されていくのだと思います
何はともあれ第一回目の井のいちが無事終了しました。
何かを書かなくてはと思いつつ、あっという間に日が経ってしまいました。
例年より早い梅雨入り、台風という生憎の天気に見舞われた井のいちでしたが、想像していた以上に多くのご来場者にお越し頂きほっとしています。
まずは、出展者の方々、来場者の方々に深くお礼を申し上げます。
この計画を立案したのは約8ヶ月前です。
その間に起こった東日本大震災。その前後では少し井のいちに対する考え方が変わったかもしれません。
自分は結局の所重要なのは人の主観的な人生の質のだと思います。
モノを作ったり売ったりすること美しさなどは最終的には人が人として生きる尊厳や主観的な人生の質に関わる重要な仕事だと思います。<中略>
自分が思ったのは、そういったときにその事実をどれだけ深く自分の問題として考え、自分たちにそれが起こったときにも心が折れないように生きられるよう自分の心棒(ママ)を強靱にしていくことが大切に思えました。
震災直後に知り合いの作家がくれたメールの一部です。
コミュニティー再生などとはよく聞く言葉ですが、おそらく昔のままの「場所」を基軸にしたコミュニティーを再生しようとしても無理があるような気がします。
しばらく前に読んだ養老孟司さんのコラムに書いていたような気がするのですが、
元々日本人がもっていた「諸行無常」という感覚とは異なる西洋的な(いわゆる「変わらない」)「個人」主義の観念をそのまま導入して「個性」などを育もうとしても上手くいくはずがない。家族や組織というものが崩れて、「個人」が社会と直接に関わりを持たなくてはいけなくなった時、「公」としての個人というものは本来国家によって守られなくてはいけないのにそうなっていない。
そして、まさしく現状ではその守られていない「個人」が最小単位の社会になりつつあります。
未曾有の自然災害とは別に、人災によって今まさに起こっているもうひとつの問題。
このような不安な時代では、否が応でもあらゆる出来事に対応できる心構がますます必要になってくるでしょう。
そして今までの「場所」を基軸にしたコミュニティーが完全に解体され、感性や思考によって自然派生的に集まった新しい「個人」によって今までとは異なる形のコミュニティーなりがその場所の一角、もしくは場所を超えて再構築されていくのだと思います
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